“評論家とは気楽な稼業だ。
危険を犯すこともなく、料理人たちの必死の努力の結晶に、審判を下すだけでよい。
辛口な評論は書くのも読むのも楽しいし、商売になる。
だが、評論家には、苦々しい真実がつきまとう。
たとえ評論家にはこきおろされ、
三流品と呼ばれたとしても、
料理自体の方が、評論より意味がある”
これは、ピクサーの映画『レミーのおいしいレストラン』の締めくくりの場面での、料理評論家アントン・イーゴーの言葉です。
続けて、「しかし、時に評論家も冒険する。その冒険とは、新しい才能を見つけ、守ることだ。世間は、往々にして新しい才能や創造物に冷たい。新人には味方が必要だ」という評論家の価値もちゃんと認めているのですが、それでも文中の「料理自体の方が、評論より意味がある」という言葉には、モノやコトを創造する側と、自戒を込めてそれに対する外野側の在り方が語られています。

9月の初旬に、WORK Design Library編集部から「20代半ばから30代半ばのビジネスパーソン向けに、“はたらくセンス”において役立つレストランやホテルについての記事を寄稿せよ」との連絡をもらったものの、「どこそこの店が旨いだ、マズいだ、誰それとオレは親しくしているんだ、なんていう野暮な話でお酒を飲んでいけないよ」と、明治生まれの祖母から聞かされて育ってきた僕としては、これはいわゆる祖母が忌み嫌っていた外野論に加担しなくてはいけなくなってしまった、さて困ったぞとなったわけです。
とはいえ、生きるにあたって、どうでも良い会話こそに人の潤いがあるというのもまた事実でありますゆえ、それを聖人君子のごとく否定するほど、褒められた人生を送ってきたわけであるまいし。
ならば!というくらいの曖昧な立ち位置から書き進めていこうと思っています。あー、また言ってしまった、自分はなんと節操のない、品のない、あさましく、さもしい人間なんだ、改めなければ!と三歩進んで二歩、あるいは三歩下がるくらいの感じでウロウロしながら参ります。

だからといって、無節操に旨いだマズいだを語るのはさすがにセンスを疑われると思いますので、本コラムでは、「味についての言及をしない」という縛りを作ろうと思います。読者の皆さんが住むビジネスの世界も、基本的なスタート地点は、資源制約であります。時間が、資金が、人材が、、、と様々な制約があるから、それを解決しようと事業が生まれ、工夫が重ねられていくというわけで。
万人にとって、満遍なく「良い店」なんていうものは存在しません。相手、シチュエーション、気分などによって目まぐるしく「良い店」というのは都度変わるわけであります。だから、「良い店知りませんか?」などというのは、ちょっと意味をなさない質問でして、だとすると、数限りないお店の中から、そのタイミングにおいてのベストなお店を探すなんていうのは、だいぶ確率の悪いお話でありそうだということは、読者の皆さんも薄々勘付き始めてらっしゃると思います。
ならば、逆に「客として自分がどうあるか」というセンスとしか言いようのない漠としたものながら、自身の影響の及ぶ範囲の輪郭を固めていくことの方が、結果的に「良い店」と出会える可能性が上がっていくのではないかと考えます。
(文責:田中)